2006年12月09日

気づきが始まりとは限らない

世の行方を憂うのは何も考えていないよりもマシかもしれないが、それは常態であって特別視するようなものではない。わたしの新発見はわたしの経験に限るならたしかに新発見なのだが、数百年前に同じことを見つけた人がいたとしても不思議じゃない。

いま述べていることも例外ではなく、ただ注目に値しないがために幾度も発見されているだけとみるぐらいで丁度なのだ。

引っかかたのは「いま何とかしなければ」や「早晩〜となる恐れ」といった論調。意見や提言での定番表現とは言え、どうも易々と使われすぎている気がしてならない。憂慮すべき事態を現在進行形だと訴えるのはよいが、はたしてその事態がいつ始まったかを本当に把握できているのだろうか?

たまたま関心を寄せたり資料を手にしたタイミングで発見しただけで、じつは十分に古くから存在していた事象なのであれば、この先「さらに悪化する」などという懸念は急ぎすぎというものだ。現在は「原因」であると同時に「結果」でもある。

その底には心を揺する罠がある。今は特別な今ではない。自戒をこめて書いておこう。

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2006年08月22日

寛容さの根拠

またまたgitanezさんのブログに触発されて考えたこと。

他の方のコメントにもありましたが、人が間違いを恐れずにアウトプットするためには、間違いに対して寛容さのある環境がなくてはむずかしいと思います。
間違えを受け入れられる寛容さ

他者の意見に聞くには他者の視線を想像する努力が必要だ。それは意見の正当性を問うのではなく、もっと純粋に、自己の論理の枠をゆるめ、他者が何を見たのかを探る試みが必要だ。同じものを同じように捉えても異なる結論に至ることがある。ましてや違うように捉えていたのであれば理解しあえるはずもない。

問題を分析し、単純化し、ぶれのない議論をすることは有効であり有益でもある。しかし、手法は手法。すべての問題が正誤の二択ではなく、また正解が一つしかないとは限らないことを思い出せるなら、意見に対する寛容さは自然なことだ。

やはり問題はどう決断するかに向かうように思える。

#gitanezさんの議論とはちょっとズレたか。

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2006年08月15日

行動は修正困難を呼ぶ

いつも参考にさせてもらっているブログの記事から。

そういう人に対して言いたいのは、なんで間違えることをそんなに気にするの? そもそも時間をかければ正解が出せる根拠があるの? ということです。

このコピーは心に響きました。モヤモヤとした感覚が実体化したときの爽快さ。ここには重要な指摘を感じます。意識していたいフレーズです。

ただ、gitanezさんがいう「自分の意見を言いたいと思っているのに、誤りを恐れるあまりに躊躇してしまうことがある人」になってしまう理由も考えておかなければならないでしょう。

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2006年08月08日

楽しさの在処

ここのサイドバーをどうにかしようとスタイルシートをいじってみた。

CSSなんぞ読むのも久しぶりというわけで、とりあえず見覚えのあるパラメータを触っては「反映と確認」というベタかつ根拠のない手法で押しきってしまった。こんな汎用性のカケラもない記述でガマンできるなんてオトナになったものだ。費用対効果の判断がじぶんにあることを忘れてはいけない。

画面を確認しながら場当たりに作業していて思ったのは「これは楽しい」ということ。

操作の結果がすぐ&わかりやすく見えるのがいいのだ。ただし、「すぐ」と言ってもリアルタイムにフィードバックをかけられるほど速くてもダメだ。書いたコードをレンダリングするような間接操作には結果出力までにタメがあるほうがおもしろい。他方、直接操作にリアルタイムフィードバックが求められるのはそうしないとストレスがたまるからだ。

直接操作は実務的であり効率的であり短時間を良しとする。遊びは間接操作にある。結果を想像し、結果を期待し、結果を確認することが楽しいのだ。

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